沖縄の災害伝承碑を訪ねて

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4月3日の台湾地震による津波警報でてんやわんやだった沖縄。災害への備えとして沖縄本島にある災害伝承碑を巡ってみた。

4月3日に台湾で発生した地震。沖縄でも津波警報が発令されて携帯からはアラートが、街からはサイレンが鳴り響き大変な騒ぎとなりました。

幸い我が家はそこそこ海から離れており全員が家にいたので、警報の解除まで自宅待機していましたが沖縄でもこういう災害が起こりうるんだなと改めて考える一日でした。

さて、本日の記事ですがかつて天災があったことを伝える災害伝承碑というものがあります。今回は沖縄本島にある災害伝承碑を巡ってみました。

 

津波被災地跡(名護市真喜屋)

国土地理院に災害伝承碑をまとめたものがあるのですが、沖縄本島にある災害伝承碑は4基(離島も入れると7基)。そのうちひとつは南城市の奥武島にある1951年のアイリス台風の被害を伝える「海上遭難者慰霊之塔」。残りの3つは1960年の南米チリ地震で起きた津波の被害を伝えるものです。今回はそのチリ地震の被害を伝える3基について紹介していきたいと思います。

名護市真喜屋にある災害伝承碑は真喜屋運動広場という広場の片隅にあります。

運動場の向かいは羽地内海。波もなく穏やかな感じです。

こちらが津波被災地跡の碑。書いてある内容としてはチリ地震の概要と日本での津波の被害、さらに

当地には、真喜屋小学校があったが津波によって全校舎・校地が破壊され校地移転を余儀なくされた。地域では死者3人、学校裏の護岸及び屋我地大橋、奥武橋が全壊した。

と記されており、「この被災を教訓として地震・津波の防災のために生かしたい」と締められています。

 

屋我地大橋の歴史(名護市真喜屋)

「津波被災地跡」の碑のすぐ近くにもう一つ災害伝承碑があります。先に全壊したと記載があった屋我地大橋のふもとです。

それがこちら。「屋我地大橋の歴史」という石碑。

碑には

一九五三年に完成した初代の屋我地大橋は、わずか七年後の一九六〇年、地球のほぼ裏側に位置する南米チリでおこった地震がもとで発生したチリ津波により流失してしまいました。

との記載があります。碑の上についてるモニュメントは津波なんでしょうか。


「那覇市歴史博物館 提供」

ちなみに流失した屋我地大橋の写真が残っているのですが、破壊された橋からも津波の勢いが相当なものだったのが見て取れます。

 

津波襲来の碑(名護市大浦)

3つ目の「津波到来の碑」は先ほどの2基とは離れて名護市の東海岸側、大浦にあります。

それが大浦集落の公民館前にある「津波襲来の碑」。こちらの碑文も前半はチリ地震の概要が書かれています。後半部分は

当地では、午前五時半頃から数回に亘り来襲、津波高五mにも及び大浦橋が全壊 護岸も決壊 全家屋浸水し生活用品 家畜等が流失 消滅した

と書かれています。今回の台湾地震の津波予想も最初3mとかだったのでとんでもない被害になるかもしれなかったということですね…。

碑の土台には津波によって流失した大浦橋の写真もありました。


「あまかい」=あっちみたいな意味

ちなみに大浦集落には目立つ所に避難所の案内も貼られていました。

隣の瀬嵩集落に抜ける山道があるようで、そちらが避難所(兼山のさんぽ道)になっているようです。避難経路がちゃんと分かるように記載されているのは安心ですね。

 

災害への備えを忘れずに


地震があったときに「チョーチカ・チョーチカ」というまじないがありますが、経塚からきているそうです。

というわけで本日は沖縄本島にある津波の災害伝承碑を巡ってみました。離島には他に1771年に起こった明和大津波の慰霊碑もあり、津波によって運ばれたという津波石があったりもします。

地震が少ないと言われている沖縄ですが自然災害はいつどこで起こるか分かりません。避難経路や家族同士での取り決めだったりと災害への備えを日々忘れないようにしましょう。

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