国頭村で林業の歴史を聞いてきた

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国立公園が決定したやんばるの森。一時期は丸裸に近い状態だったらしい。というわけで国頭村で真面目に林業の話を聞いてきた。

2016年6月20日「やんばる国立公園」が決定

今年の6月20日、環境省は国頭村、東村、大宜味村にまたがる森と一部の海域を「やんばる国立公園」に指定することを決定しました。この国立公園は日本政府が2018年に世界自然遺産登録を目指す「奄美・琉球」地域に含まれており、やんばるの森が国立公園化でされることで世界自然遺産登録に大きな一歩を踏み出した感じになるのだと思います。

さて、先日読者の方から情報を頂きまして、そんなやんばるの森が、かつては丸裸に近いくらい木が伐採された時代があったのだそうです。

というわけで「やんばる国立公園」誕生前の国頭村でやんばるの森について割と真面目に話をうかがってきました。

 

やんばるの森が禿げ野原だった時代

読者の方に紹介頂いて今回お話をうかがったのは国頭村で林業に携わってきて、村会議員も務められたことがあるという与儀幸政さん。さっそくお話を伺ってみたいと思います。

- 本日は宜しくお願いします。
想像がつかないのですが、やんばるの森が丸裸に近い時代があったという話を聞いたのですが

私は南洋のペルー島というところの生まれで、そこで父が事業をしていたんだけど戦死してしまってね。7つのときに母と兄弟で沖縄に帰って来たんだよ。当時は那覇中南部は焼け野原で1960年代まではみんな家も焼かれてしまって米軍のテントや茅葺きのちょっとした家に住んでいたんだ。中南部には木も水も何もない。もちろんガスなんてものもない。もう頼れるのは炭と薪さね。そういう時代だったよ。

僕は高校を出てから県庁に入ったんだけど、あのときではタバコ1箱くらいの給料しかないわけさね。月給がよ。それでは貧乏から脱却できないということで林業をはじめたんだ。国頭村は戦争直後は戦争から人が帰ってきたりして9000人くらいは人がいたんだが、ここには水産業もないわけ。農業と言っても農業らしい農業もなかった。あるのはわずかな畑でイモを作ったりしていたが、現金所得というものはなかったね。でも子供たちを学校に歩かせるのもお金がいる。それでほとんどの人は山稼ぎをしていたんだ。

薪や復興資材で木材が必要で、当時の山にはもう太い木は1本もなかったよ。禿げ野原だったね。もう山奥に行ってもちょっと太い木を探すのにもものすごい苦労をしたよ。ずっと谷間の担げないところに少し木がある程度だった。

- 担ぐ、ということは木は担いで運んでいたんですか?

そう。今でこそチェーンソーだけど、昔はノコギリを持って薪になりそうな木を二里くらいの遠い所から切って担いできて薪にして束ねたりしてたんですよ。共同売店というのがあるでしょ。薪は共同売店に集められて出荷されるわけ。共同売店には生活用品が売られていてみんな掛けでものを買っていたよ。余裕のある人は現金も取っていたけど、ほとんどの人はその掛けを日々の林産物で相殺していく形だったね。

薪の他には炭も沢山つくっていて、山の中には沢山炭焼きの窯があったよ。ほかにも木の灰を藍と混ぜる藍壺というのも沢山あった。藍壺で腐らせた藍を持ち帰って芭蕉布を染めたりもしていたね。

山稼ぎは本当にキツイ仕事だったよ。共同売店では泡盛がマス売りされていて、共同売店に林産物をもちこんで酒を飲んで帰るというのが楽しみだった。2合瓶や3合瓶は買えなかったから。

- 薪ひと束でだいたいどれくらいの儲けだったんですか?

時代によってだけど、あるときは薪ひと束15円。コーラが12円だったね。

- ちょっと気になったんですが、木はどこからでも切ってよかったんですか?

いや。まず国頭村には20ヶ部落あるんだが、それぞれ部落の区域は決まっていて他部落の山に侵入してはいけないという決まりがあった。山にはそれぞれ不正を監視する人がいて、見つかったら呼び出しをくらって罰金を払わないといけなかったんだよ。それでもこっそり他部落の木を切って、自分の部落内に運んでここから切ったという風にするんだが、そういうことをするとすぐ分かったよ。それでも可哀想だから見逃したりなんてこともあった。

- 同じ集落の中でも取り決めはあったんですか?

部落ごとにもここの一角が成長してるので切りましょうというルールを守ってやっていたね。その約束を破ると「山札」という木の札のを渡されてやはり罰金だった。罰金と引換に山札は区長さんに渡していたね。お金が払えない場合は人力を提供してお金の代わりにしていたよ。

 

日本復帰からの植林事業

戦直後から復興資材などの確保で丸裸になったやんばるの森。ではどのように今の姿になったのだろうか。

- ほとんど木がなくなってしまったと先ほど聞きましたが、それからどうなったんですか?

沖縄が日本本土に復帰して生活環境が変わったり、輸入材が入ってきたりしたから山稼ぎを辞めてサラリーマンになる人なんかもでてきたね。そんな時代にこの山を育てるにはどうしたらいいかということで我々は議員になって立ち上がったわけさ。

その当時は国頭村は山という財産をもっていなかった。だから公有林化を進めたり、山を作るために林道を整備したりしたわけ。


大国林道は与儀さんが議長時代に整備されたものだそう

そして、どうしても沖縄は水が無いわけさ。中南部は特に。振興するためには企業も誘致できないということでダムを作って水源開発をするという話が出てきた。みんな渋っていたけど僕はみんなを説得したりしてね。植林するための負担金を県が負担してくれるように水源基金を作ったんだ。それで植林をすすめて、今の山を作ってきたんですよ。当時の林務課の先輩や知事はそれは一生懸命だった。頻繁にこちらに足を運んで山について話しあったものだよ。

- そうやって、今の森ができあがったというわけなんですね。今度国立公園になるということですが…

そのことについては少し複雑だね。これまで我々は県民のため、国頭村のために財産として森を育ててきたのに、なぜそれを国の管理下におくのかね、という思いはあるよ。

 

伝えたいこと

- 本日は色々とお話ありがとうございました。

最後に言っておきたいのだけど、山は捨てたもんじゃないというのを分かって欲しいね。1日1日で財産が成長していく。CO2の削減にもなる。水だって国頭村の森が育んでいるんですよ。やんばるは「ヤンバラー」といって田舎者扱いされるけど、僕は「御山原(うやんばる)」と呼んで欲しいね(笑)。沖縄に住む全ての人に山は恩恵を与えているというのを知って欲しいよ。

あの頃の林務課の先輩方は亡くなってしまって、山原の山の話を覚えている人も僕らが最後なんじゃないかと思っているよ。ぜひみなさんにも山の歴史を知って欲しいよね。

 

というわけで「やんばるの森が丸裸だった時代がある」から始まって、与儀さんより国頭村の林業についてお話を伺いました。僕自身国頭村の森は普通に原生林なんだとばかり思っていて、すごく興味深いお話でした。この話を読んでやんばるの森を見る目は変わりましたか?

末筆ですが、情報提供とお話をセッティング頂いた成田さん、色々とありがとうございました!

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