2018.08.29

今はなき沖縄最大級の釣り堀「港川フィッシングパーク」(前編)

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子供の頃に「港川フィッシングパーク」という釣り堀で釣りの楽しみを覚えた。沖縄最大級の釣り堀で、水上レストランもあった。しかし今、ネットで探してもフィッシングパークの情報はほとんどない。そんな港川フィッシングパークの全貌が、今日蘇る!

港川フィッシングパークとは

お久しぶりでございます。jukuchonです。
みなさんは港川フィッシングパークという施設をご存知でしょうか?

港川フィッシングパークとは、具志頭村の河川沿いで昭和45年前後から30年ほどやっていた沖縄県内最大の釣り堀で、養鰻場や水上レストランもあった施設


当時の写真


当時の写真

40代以上の方は鮮明に覚えている方も多いと思います。
私も小さい頃に、この川とこの釣り堀で釣りを覚えアウトドアの楽しさを知った原点となる思い出の場所です。

その昔に廃業したのは知っていたのですが、42歳になった今でもずっと釣り堀が気になっていました。しかし、いざググっても写真も情報も全くナシ。
これは記録に収めなければ!と思い取材をしてきました。

今日、港川フィッシングパークの全貌が蘇る!

創業者の娘さんにお話を伺ってきた

縁あって港川フィッシングパークの創業者の娘さんにあたるタマキシホコさんにお話を伺いました。


この記事の写真はシホコさんにたくさん提供していただいています。ありがとうございます

- 港川フィッシングパークには、とても大きい釣り堀がいくつもあった覚えがあります。
どのぐらいの規模でしたか?

う~ん、下の釣り堀で1万坪、、上の稚魚池で3000坪くらいかしら。

- ということは計13000坪!やっぱりスケールが大きかったんですね!!

創業は昭和45年頃かしら。それから30年ほど家族で経営していました。釣り堀もだけど本業は養鰻場。
元々は糸満の大里で4~5年ウナギを養殖していて 具志頭村(現在の八重瀬町具志頭)のこの河川沿いに引っ越してきたの。
大昔のことだのにあなたはよく覚えていますねぇ。ふふふ。

- 小さい頃に両親に連れられてよく釣りにきました。沢山の人が釣りに興じていた覚えがあります。

当時は娯楽の少ない時代だったから日曜日はいつもいっぱいで、竹竿に簡単なウキ釣り仕掛けで、コイ、ティラピア、ウナギを釣って楽しんで頂いていました。


釣りを楽しむ人たち


たしかに竹竿です


施設中央には芝生広場


遊具もありました

足りなくなったら釣り堀から調達していた水上レストラン

- 水上レストランもありましたよね?レストランの足元がガラス張りだったのを覚えています。レストランではウナギを食べた記憶があります。

レストランは日曜日はいつも人でいっぱいでしたよ。
当時は国産のウナギが人気があってウナギとコイ料理をだしていました。
コイは熱冷ましに効く鯉コク(輪切りにした鯉を、味噌汁で煮た味噌煮込み料理)や、あらい好きの常連客の人たちが好んで食べていました。

私も厨房にはいっていて食材が無くなると釣り堀から釣り上げて提供していました
今でもコイやウナギを捌くのは得意ですよ。ふふ。


昭和45年頃の写真


レストラン建設当時でしょうか

釣り堀に落ちる子供がたくさんいた

- 私が4~5歳ころに橋のたもとから池に落ちた記憶があります。
父が助けてくれましたが、意外に水深が浅くて驚きました(笑)


欄干のない橋。ここから落ちた

あなた池に落ちたの?あらあら。

- ちなみに私の従姉妹も落ちました!
濡れて困っていたら服を一式貸してくれたのを覚えています(笑)

当時はただの養鰻場を釣り堀にしたので、手すりもなくて、今で言えばファミリー向けじゃなかったのね。
池に落ちる子はほんと多かったから服を用意していたんだけど、落ちないように対策をしたら良かったのかもしれないわね。ふふ。


道の両脇が釣り堀。道が細いので人とすれ違うときは注意しないと落ちてしまう

- そうそう!施設の隣に流れる川も覚えています。
親父がね、そこで大ウナギを釣り上げたんです。
それ以来、大ウナギの魅力にハマってしまい今でも大物を狙っています。


2メートル級のオオウナギを求めて』より

この川は鍾乳洞と繋がっていて水量が豊富だったから、養鰻場は自然を生かして作っていたのよ。


当時の川

創業者のお父さんのこと

- 創業者であるお父様のことを教えていただけますか?

父は長嶺正徳といいます。元気であれば90代ぐらいかしら。
父は手広くなんでも徹底的に商売をやる人なので職を変え、 住むところを変え、家族はついていくのが大変でした。


創業者の長嶺正徳さん

元は教員で本も出版しています。米軍基地へ野菜を生産卸しをする会社「ナハグロスリー」を軍港前の山下町で経営していたわ。


ナハグロスリー

1950年頃、朝鮮戦争時には海外へ出荷する野菜を梱包する木箱工場もやっていましたし、村議員議長や養鰻組合長もしていました。


木箱工場


村議会議員時代

- 多岐にわたる事業をされていたんですね

私たち家族はついていくのがやっとで、毎日のウナギ出荷に、週末は釣り堀、レストランと休む間もありませんでした。でもいま思い出すと楽しかったですね。
息子が警備室で入場料を受け取るアルバイトをしていたの。常連客がお年玉やお小遣いをくれたりして可愛がってくれたのが嬉しかったですねぇ。祖父の血を引いてか、孫が大の釣り好きになりましたよ。


入場料を受け取る警備室は今も残っている

- なぜ閉園されたんでしょうか?

時代の流れか中国産ウナギが輸入されてきた上に、後継者問題もあって経営がうまくいかなくなってきたの。
県内にもあちこち娯楽施設が増えて客足が遠のいて、後半は私1人でやっていましたが、阪神大震災前の1993年頃に廃業しました。
その後、施設は一部埋め立ててターンム畑をしたり、倉庫として貸したりしたけど、借主が夜逃げ同然で消えてしまったりと大変なこともありました。

- そうだったんですね。自分に息子ができた今、一緒にフィッシングパークに来たかったなと思ってしまいます。

 

ありがとう港川フィッシングパーク

帰る間際シホコさんが

「廃業して随分時間が経ちますが、釣り堀の事で訪ねてくる人は貴方が初めてでした。びっくりしたけど沢山の思い出を語ってもらって嬉しかったわ。今年の旧盆には亡くなった父に良い報告ができます。本当にありがとう」

と言ってくれました。
こちらこそ、僕だけでなく多くの人が通ったこの釣り堀を記録に残すことができました。
知っている人にも知らなかった人にも、港川フィッシングパークのことを記憶に残してもらえたら幸いです。


我が家に一枚だけ残っていたフィッシングパークで遊ぶ11歳頃の私

長嶺正徳氏、シホコさん、港川フィッシングパーク。 
沢山の思い出を本当にありがとうございました!!

いかん。涙腺弱くなってきた(涙)

ということで前編はこれにておしまい。
後編ではやんばるたろう氏と僕が、港川フィッシングパーク跡を歩きます。乞うご期待!

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