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桜坂昔ばなし
那覇の桜坂。桜坂劇場から平和通りに行く道は昔は崖だったらしい。その後、桜の木を植えて通りの名前を「桜坂通り」にしたが、桜の多くは花が咲く前に枯れてしまった。そんな話を聞いてきました。
現在の桜坂劇場の近辺を指す「桜坂」。
住所としては那覇市牧志にあたりますが、桜坂通りにちなんで「桜坂」と呼ばれる歓楽街です。
そんな桜坂に関して、ある日DEEokinawaにこんなメールが届きました。
父から聞いた話です。
私の祖父は終戦後牧志平和通りにあった崖を埋めて坂を造り、山原から桜を移植して「桜坂」と名付けました。坂を登りきった今のハイアット・リージェンシーの一角に自宅があり庭には最後の桜が手放すまで咲いておりました。
敷地には沖縄で最初のクラブも有り、戦後沖縄風俗の歴史の1コマになるかもしれません。
父も高齢なので、面白いエピソードが風化するのは残念です。宜しければ取材願います。
これは!ということで話を伺ってきました。
桜坂通りはもともと「坂」ではなく「崖」だった?
お話を伺ったのは取材依頼をいただいた岸本幸一さんのお父さまである岸本幸博さん(86歳)。

当時を思い出しながら話をしてくださる幸博さん
- メールにありましたが、もともと桜坂は崖だったのですか?
幸博さん:
そうです。平和通りから現在の桜坂劇場に行く、この道はもともと坂ではなく崖でした。
いまは桜坂劇場から坂を下りたらすぐ平和通りにいけますが、もともとは急勾配の崖にスコップで小さいくぼみを作って、こうやって(クライミングのように)上り下りしてたんです。
それを削って坂にしたんです。坂になったことで、映画館のオリオン座ができたり、珊瑚座ができたりしたんですよ。
崖だったことは多くの人が知らないはずです。

現在の平和通りから桜坂に行く坂
-当時の桜坂周辺の様子は?
幸博さん:
桜坂に引っ越した1950年頃は周辺はまだお店も少なく、ポツンと我が家が立っていただけでした。
その後に坂ができて、平和通りの方にはオリオン座、今の桜坂劇場のところが珊瑚座で、隣に当山医院があって、その前には那覇無尽、那覇無尽はそのあと相互銀行になって海邦銀行になりました。

このお店は後からこうなって、とすごい記憶力です
桜坂の名前の由来
- 通りに桜坂という名前をつけたのは幸博さんのお父さんなんですか?
幸博さん:
周辺にぼちぼち飲み屋が出てきた頃に、崖を坂にしたんです。
うちの父である岸本幸全と山城善光さんという方が、通り会ができたときに会長と副会長をやっていて。それで通りの名前を決めようかということになったんです。
山城さんが大宜味の出身の人だったから、そこから桜を持ってこようと。そして山城さんは戦前に東京にいたので神楽坂を思い浮かべながら「桜坂」としたらどうかということになって。通りにあちこち桜の木を植えたんです。その1本をうちの自宅の庭にも植えて。
- 桜坂通りの誕生ですね
幸博さん:
今なら植樹は重機でやると思うんですが、その頃はないからスコップで桜を植えました。
めんどくさいからある程度しか掘ってなかったからか、すぐ枯れてしまったんです。酔っ払いが木を折ってしまったり。
- なんと。
幸博さん:
桜坂通りという名前をつけたのに、通りの桜は花が咲かないうちに全部枯れてしまったんです。
残ったのはうちの1本だけでした。
- あ、でも珊瑚座の前に桜の木があったという話も以前聞いたことがあります。
幸博さん:
そういえば珊瑚座の前に2本立っていた気がします。後から植えたかもしれませんね。
珊瑚座の桜が桜坂の由来になった最初の桜ではないです。

現在の桜坂劇場の前にも桜の木はあるが、後から植樹されたもの
桜坂の名前の由来になった最後の桜
- 最後に残っっていたご自宅の桜はいつまであったんでしょうか?
幸博さん:
自宅は今のハイアット(ハイアットリージェンシー那覇沖縄)のところにあったんです。
そして庭にあった桜がこれです。
後ろの壁は桜坂オリオン座の壁ですね。

幸博さん:
写真は別の人が撮ったものなんですが、撮影されたときはもう引っ越した後だったから「こんなにきれいな桜だったんだ」と思って感動しました。その後に桜を見に行ってみたらツタがいっぱいでそのときはあまり咲いてなくて。
自宅跡は駐車場になってからも、桜はずっと残っていたんですが、ハイアットができたときになくしてしまったんです。桜自体も弱っていたし切らざるを得なかったと思います。でもその歴史を知っている人がいたら残したかもしれないですね。
- 駐車場の桜覚えています!あの桜にそんな歴史が。

2015年にオープンしたハイアット リージェンシー 那覇沖縄
幸博さん:
桜坂通りにあった枯れた桜も、その当時は車は通ってなかったけど、道が狭いから桜並木があっても残せなかったかもしれないですね。
幸博さん:
そうそう、うちの父はもともとは恩納小学校の校長先生をやっていたんです。赤紙も来たらしいんですが、教育勅語を持って行ったらそれを守ってくださいということになって赤紙は免除されたそうです。
そして校長職を早期で引退して、桜坂で印刷業を開業して。自宅兼印刷所です。移ってきたのは1952年頃だったはずです。
幸博さん:
これを見てください。

クララ嬢大暴れの記事
幸博さん:
当時の日本はアメリカの占領下だったから、アメリカにならって女性の名前を台風につけていたんです。ほら、そのときのうるま新報。その頃は琉球新報ではなくうるま新報と言ってたんですよ。
幸博さん:
自宅の隣にあったオリオン座はもともと木造2階建ての予定だったんです。そして屋根は赤瓦で。建設中の柱だけで壁はまだのときに、瓦を葺いたんです。沖縄の瓦はとても重いでしょう。そのタイミングでクララ台風が来たんです。家族で居間で寝転んでいたら、オリオン座からギーギー音が聞こえてきて、建物が崩壊したんです。印刷業をしてたから裁断機があって、大きな鉄だからそこまで行ったら隙間が空いてるからと、なんとかみんなで逃げて行って助かったんです。自宅は全壊して、わたしたちは崩れた家の天井をやぶって外に首を出したんです。昼間だったから近所の人が助けてくれたけど、夜だったら危なかった。ネズミまで潰れて死んでましたよ。
庭の桜も当然埋まったはずだけど、掘り返してまた植えたのかな。

沖縄最初のクラブ
- ご自宅の敷地内に沖縄で最初のクラブがあったそうですね
幸博さん:
そう、少しづつ飲み屋が増えてきた頃です。『処女林』というクラブで女の子はみんな奄美大島あたりの人でした。クラブに面した自宅の中庭に井戸があって、クラブの営業が終わると女性たちが裸になって井戸で行水をするんです。それをうちの家内が「こどもの教育に悪い」と言って、首里に引っ越すことになったんです(笑)
幸博さん:
少し行くと『大阪』というキャバレーもあって、フルバンドがいて大きかったです。
引っ越した後に当山医院跡にストリップ劇場ができました。自宅側(お父様はまだ住んでおられたそう)が楽屋裏だったので、こどものオムツなんかが干してあって、不思議な光景でした。
- 坂ができてクラブができたことで、桜坂は歓楽街になっていったのかもしれませんね。本日は貴重なお話ありがとうございました。
地図
取材後に図書館で過去のゼンリンの地図を調べました。
著作権の関係でゼンリン地図の画像は載せられませんが、こんな感じです。

1952年地図:岸本さんの自宅の隣にあった木造の桜坂オリオンが岸本さん宅に倒壊した

1980年地図:当山医院がストリップ劇場になっている
見慣れた風景と過去を想う

ということで、岸本幸博さんから戦後の桜坂のようすを伺いました。
以前公設市場周辺の通りの聞き取りをしたことはありましたが、桜坂が崖だったことは初めて聞きました。幸博さんによると、周辺のほとんどの店が坂ができてからのようすしか知らないので、崖だったことを知っている人はほとんどいないのでは?ということでした。
幸博さんの息子さんである幸一さんは、小学校低学年まで桜坂にいたそう。
その頃の思い出として、桜坂周辺には貸家も多く子どもがたくさんいて、ともだちは夜の9時、10時までチャンバラをして遊んでいたけれど、自分は門限が厳しくて遊べなかったこと。でも桜坂オリオンは近所のよしみで顔パスで映画見放題だったことを教えてくれました。
ハイアットができ、新しい道路もできて、風景が変わっていく桜坂。
でも今回の話を桜坂を歩く時に思い出してもらえれば、見たことのない過去の風景が重なって見えるかもしれません。








