ありがとうさようなら那覇市第一牧志公設市場〜前編

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いよいよ2019年6月16日に現建物での営業を終了する那覇市第一牧志公設市場。そもそも公設市場とは何なのか、そして市場の移転について。組合長である粟国さんに話をうかがった。

いよいよ見納め、那覇市第一牧志公設市場

「那覇市第一牧志公設市場」。沖縄観光におけるド定番スポットでもあり、年末や旧盆には地元のお客さんでも賑わうという観光客にも地元の人にも愛される場所でした。

沖縄に住んでいる、あるいは訪れた人はだいたい一度は行った事があるのではないでしょうか。ずらりと並んだ肉や魚。観光客に向けた商品もあれば、鯉や鮒などマニアックな食材もあったりするあの独特な雰囲気。

そこには「沖縄らしさ」が凝縮されていました。

そんな公設市場が老朽化による立て替えのために2019年6月16日(日)に閉店。

2019年7月1日からは今の公設市場から100Mほど離れたにぎわい広場に設営された仮設店舗に移動。その間に今の公設市場の建物は解体されて2022年4月1日に新たに新牧志公設市場として営業を開始する予定となっています。

あの牧志第一公設市場がなくなってしまう…。個人的にはなんだが現実味が全くなく、まだ嘘みたいなフワフワとした気分です。ネットでも悲鳴に似た、悲観的な意見も多く見られます。

しかし、はたと気づいたのですが私たちは「那覇市第一牧志公設市場」について、そもそもあまり知らないのではないかと思うのです。

公設市場とは何なのか、そして移転について。より理解を深めるために今回は那覇市第一牧志公設市場組合の組合長である粟国智光さんにお話をうかがいました。

那覇市第一牧志公設市場の歴史と特長について


1972年から変わらぬ風景ということか

- 那覇市第一牧志公設市場の建物なんですができたのはいつなんですか?

1972年ですね。空調や照明なんかは変わっていますが、建てられてから大幅な改修はしていません。基本的には佇まいはずっと変わりません。

うちの「山城こんぶ店」は大きいおばあさんが戦後に闇市をここでやるときに、乾燥昆布を知り合いが売っていたからそれを湯がいて売ってみようということになって、その流れから公設市場に店を創業したと聞いています。

当時は公設市場の一帯は湿地帯だったんです。戦前の沖縄の中心地は今の東町で大きな市場もそこにありました。それが沖縄戦、那覇の空襲で全部なくなって、戦後はアメリカ軍の統治で那覇は自由に出入りできるエリアが制限されていました。戦後最初に開放されたのが、壺屋。そして自然発生的にこのあたりに闇市が形成されました。

闇市を解消するために那覇市が公設市場を整備したんです。内地の公設市場というのは物価高を解消するために、賃料を安くして価格の安定とモノの安定供給を目的としてできていますので、本土の公設市場とは流れが違うんですね。どちらかといえば戦後処理の一環になります。

 

- 他に特徴的なことはあるのでしょうか?

1階のお店を見てもらいたいのですが、肉屋、魚屋、その他食料品という形で同じ業種のお店がかたまっていると思います。あの配置ですが、実は戦前に那覇の東町にあった公設市場のシシマチ(肉市)、イユマチ(魚市)といった配置をそのまま踏襲しているんです。戦前と同じ配置をしているというのは全国的にも珍しいと聞いていますね。


鮮魚、精肉、食料品とブロックが分かれている

新たに仮設市場、そして新市場ができますが、この配置はこのままずっと踏襲する予定です。

 

市場のお店と観光化

- 公設市場開設から入っているお店は変わっているのでしょうか?

6-7割は変わっていませんね。

ただ、2階の食堂は随分変わっています。実はもともとの2階は食堂想定で作られたのではないんですよ。もともとは色々な業種のお店が入っていました。例えば公設市場の業者が袖が破れた場合に直してもらえる服のリフォーム屋などですね。その中に食堂も2店舗くらいがある程度だったんです。

それがだんだん食堂が増えていって、今は食堂エリアみたいになっていますね。広い空間にテーブルと椅子があって、オープンスペースみたいになっていますが、もともと食堂想定のつくりじゃないのであのような形になっているんです。


2階の食堂エリア

 

- 食堂が増えたのは観光客が増えたことが原因ですか?

公設市場に観光客が訪れるようになったのは1990年くらいで、それ以前から食堂は増えていましたね。

今は1階の店舗で食材を買って、それを2階の食堂で調理するという「持ち上げ」という仕組みがありますけど、実は始まったのは平成3年くらいだったと思います。その当時の那覇市は首里城も無かったし、観光スポットと呼べる場所が無かったんです。そして那覇市近郊に大型スーパーが開店したことで、市場界隈から地元のお客さんが離れていきました。


持ち上げのルール

そんななか、那覇市の公設市場の雰囲気は南方系の雰囲気でここをもっと観光スポットにすればいいのではという意見があって、東南アジアや台湾ではすでにあった「持ち上げ」という制度をやってみたんです。

官民一体で旅行会社や航空会社にPRして、いまではすっかり定着しましたね。

 

- 観光客を意識して市場の商品も変わってきたのでしょうか?

昔は地元の人がターゲットでしたが、観光客が増えることで商品の陳列方法ややり方も変ってきましたね。例えば、肉屋さんは生肉を扱うのみでしたが、今はソーセージやラフテーなど加工したもので観光客が持って帰られるものも売っています。時代時代で扱う商品は変わってきたと思います。


デジタルサイネージに外国語表記など、新しい技術も割と使われている

 

お店の構成と賃料

- お店の賃料っていくらくらいなのでしょうか?

公設市場のお店の単位は小間というのが基本になっています。これが1〜3等まであり、1番高い1等で1平米換算で、消費税込みで5450円になっています。1坪計算だと1万6-7千円くらいですね。

1小間は1坪ない2.3平米が平均になっています。


1972年当時の小間図らしい。結構細かく分かれている。

 

- 誰でも借りてお店を出せるものなのでしょうか?

基本的には那覇市の公共施設となっていますので、那覇市在住で、税金をきちんと納めている人であれば借りられます。募集は公募で行われるのでそちらに応募する形になりますね。ちなみに現在は空きはありません。

 

市場の移転と組合長

- 粟國さんは組合長という肩書きですが。

僕自身はもともと市場で働くというのは考えていませんでした。ただ、専門学校を卒業する頃にお店をやっていたおじいさんが急逝しました。その頃は「こんぶ屋」というのは市場にとっての顔になるお店でもあり、お客さんも沢山いたんです。このままお店が途絶えたら色々と迷惑がかかるので、おじいさんの代わりに商品を加工するのが僕、売るのがおばあさんという役割分担で市場で働くことになりました。

お正月など忙しい時は家族総出で手伝っていたので、働くことにそんなに抵抗はありませんでしたね。

そして、今から15年くらい前に組合の役員になりました。その当時の先輩が若い人を役員にするべきだ、と声をかけてくれたんですね。その後、広報担当として組合長の下で働いたり、生鮮部長、副組合長などを務め、組合長になりました。

僕が副組合長になったときに、ちょうど公設市場の再開発の話が持ち上がって。平成18年くらいですね。

それから移転まで10年かかりましたね。この市場が出来上がるまでにも10年か15年くらいかかったと聞いていますし、それくらいの時間がかかるのは想定してはいたのですが。

 

さて、インタビューの途中ですが話題は市場の移転の話へ。公設市場は移転で変わってしまうのか。これからの展望は6月12日に公開される中編にてお届けします。ご期待下さい!

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